司馬遼太郎「韃靼疾風録」
今まで読んできた司馬遼太郎の小説と比べると何か違和感がある気がしながら読んだ。
勉強不足だったが、「韃靼疾風録」を読んでいる途中で、本作が司馬遼太郎の小説としては最後の作品だと知った。その後は「街道をゆく」などの紀行文やエッセイが中心となり、小説を書くことはなかったという。
もしかしたら、それが違和感の正体はここにヒントがあるかもしれない。
この作品が司馬さんにとって最後になるべくなんらかの意味を持っていたのだろうか。
ノモンハンを書こうとして出来なかったという理由もあったようだが。
また、違和感の正体としてもう一つ、「憧れの強さ」がある気がしている。司馬さんのモンゴルや中国東北部への憧れは色々な書物から見て取れるが、その想いの強さが表れすぎて、少しだけ冷静さ、想像の飛躍、などが、今までの作品に比べて「荒さ」を目立たせてしまったのではないだろうか。
だだ、本作は、実在しない庄助という主人公、作家自身が自分を重ねて、本当は自身が見たかった歴史の転換点をみせているようだった。
それは、きっと幸せな時間だったのではないだろうか。
庄助の明や清の行く末の予想がことごとく外れていく様も、司馬さん自身がそこにいたら、庄助のように考えるのだろうと思うと受け入れられる。
なんとなく本作のあとにでてくる作品として浅田次郎の蒼穹の昴が位置付けてみるのも乱暴な話ではないように思う。