司馬遼太郎「空海の風景」

司馬遼太郎の「空海の風景」が好きだ。

 

1200年以上も前の存在であり、史実よりも伝説の方が多いような主人公と時代を相手にしながら、空海についての史料を1つずつ拾い、彼のパーソナリティーのカケラを集めていくという気が遠くなるような思考作業をしている司馬遼太郎の息遣いが聞こえてくるからかもしれない。

 

溢れる資料から物語を作っていったであろう「坂の上の雲」とは全く逆の作業だっただろう。

 

この小説を読み進めている途中、司馬遼太郎は、彼が拾い集めたカケラから空海の姿を見ることができたらしいことを感じた。

 

例えば、
空海は、大学の学生であることを捨てる。(中略)かすかに想像するに、丸顔で中肉、肩の肉が厚く、重心がさがっているために
両あしががに股で、清らかな貴公子という印象からおよそ遠く、それどころか全体に脂っ気がねばっこく、異常な精気を感じさせる若者
ではなかったかと思われる。」

 

「あとがき」でも彼自身が、この小説の最終稿に至り、空海の姿を垣間見ることができたと書いているが、
修行の道へと歩みだす青年空海を、情景として描き出せる作家・歴史家が司馬遼太郎以外でいるだろうか。

 

今まで空海が持つ弘法大師伝説や神格化、天才というイメージを離れて、「人間」空海を描き出し、ある意味現実世界に引きずり下ろすことに成功したという意味で、司馬遼太郎の力に改めて感激している。